2024-49 菜食

/d/2024

數日前に菜食の實踐を始めた.

長いあひだ 肉食の非倫理性を認識しながら已めない恥づべき人間でゐたのだが, 急に精神力が備はってきたので實踐する. 卵乳菜食から徐徐に完全菜食にせられればと思ふ.

— 初夏の夜風の涼しさ (@svartaz) February 16, 2024

ここに言ふ菜食とは廣義に, その苦痛を減ずる義務を生ずる生物の飲食を避けることである.
知識や信念により卵や乳や魚の許容性は實踐者ごとに變化するが, 哺乳類の肉を食はないことは概ね不變である.
Peter Singerが基礎だが功利主義に限る主張ではない.

我がいつ菜食の義務を知ったかは定かでないが, 次のtweetが初めての言及であると覺しい.

私がぼんやりとegalitarianismと呼んでいたものはintersectional veganismらしいな

— 初夏の夜風の涼しさ (@svartaz) December 19, 2018

つまり我は我が惡と知ってゐる行為を5年に渡り續けて來た.
人を否應無く肉中毒にする社會に毒された我の感情はさほど強い自責を感じてゐない.
一方で我の理性は我を苛んで來た.
我が倫理について述べるときは常に ‹だが我は肉食者だから論理系として自明 (無意味) だし, 例へば誰かが理不盡に我を拷問しても我は批難する資格すら持たない› と感じた (世界に不誠實で居る, つまり言行を一致させないのはさう言ふことである).

現狀, 脱肉中毒の過程として我は卵乳菜食者である.
魚は食ふ氣だったのだが, 調べる限り魚にも痛覺が有るらしく(これを結論するにはコウモリであるとはどのようなことかを解決する必要が有るが), 悲しい.
乳と卵は動物を慘殺せずとも確保されるために優先度が低いと見て食す (平飼ひに限り) が, いづれは無くす必要が有る.

何らかの正しさに從ふとは, 自身のみならず他者にもそれを強いることである.
‹殺人が惡である› と信ずる人間は ‹我は殺人しないが, 他人は好きにすれば良い› とは決して言はず, 必然的に不殺の強制者である (‹自身の正しさを他人に強要するな› は自己矛盾文である).
しかし現在 我は他者に強制をしない.
その覺悟が無い.
友人との食事で肉を禁止して疎遠になるよりは倫理に背く方を望む己の非理性的な部分を殺せてゐない.
我が中毒を脱し, 非理性的な己を殺し, 言行一致者となるまで, 我は倫理の世界で口の無い人間である.

人類は巨視的には改善する筈だから, 近い未來 肉食者は現在から見た人虐殺者(NaziやZionist) と同じ樣に見られ斷罪されるかも知れない.
その社會をむしろ望む.
(科學技術が動物から苦しみを取り去り肉食に何の問題も無くなる未來も有りうる.)

ところで急に覺悟が決まったのは最近讀んだ «ボーイフレンド演じます» に負ふところが大きい.番ひの一方が大層恰好良い上にveganなのである.
この樣なとき, 虛構の力を感ずる.