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2024-2 才能と努力

東大生は自身の努力に矜恃が有り, 自身の地位を環境の良さに歸着せらると怒る, と言ふ議論 (と呼んでよいか怪しいもの) がTwitterには長いことある.
(このたぐひの議論に いつも卷き込まれる東大生には同情するが.)
上野千鶴子の祝辭への反發も記憶に新たである.

Twitterで言へば, 誰でも努力すれば繪を書ける (から書けない人は怠惰である) なんて論も人氣である.
社會的に努力を要すると考へらる任意の屬性についてもこの議論は成立する.
才能 (先天) か努力 (後天) かと言ふ, 幾度も繰り返された議論である.
そろそろ飽きて良いと思ふが.
(この主題は未だに哲學的に語る餘地を有するとは想像するが, Twitterの議論がそれに資することはない.)

この議論につき わが認識を整理するがこの文章の目的である.
結論を述べると, 運 (才能や環境) は原因で努力はその結果であるから本質的に兩立し, 一方が正解と言ふものでない.

人間が生まれて與へらるもの (知能, 報酬系, 運動能力, 生育環境) は おのれが選ぶものでない.
例へば大學への入學なら (大學ばかりが話題になるのも俗だが…), 幸運にも

人間がそれを達成する.

(他人に關してなんやかや言ふのは氣が引けるから自身を取り上げると) われは まあまあの大學を出て まあまあの企業に入り困りごとの少ない生活を幸運にも送る.
日本でその樣に暮らすことは, 世界全體で見れば超惠まれた人間と言へる.
これを自身の功績と感じたことはない.

われは高校に入るまで高校を卒業すれば勞働するものと思ってゐた (周圍に大学卒業者が無かったから) が, 偶然にも大學の存在を知り得た.
貧しい片親家庭であったが, 偶然にも親が奬學金の取得に協力的で入學料と授業料を用意し得た.
また偶然にも受驗勉強に堪へる腦を有して生まれた.
これらの分岐の全部が薄氷であり, 逆の狀況でもおかしくなかった.

われが努力したから (‹偉い› から) 大學に入れたのではない, 努力は單に幸運の一部分である.
逆に不遇な人, つまり親は非協力的で, 知能は高くなく, 貧困し, 大學の存在をも知らない人も, 本人が怠けたから (‹惡い› から) その樣なのではない.
全部は運である. それを本人の責任 (功績) と勘違ひせすれば恥である.

これを聞いて自身の努力が否定されたと怒る必要も無い.
努力し得ない人, 努力して失敗する人, 努力せず成功する人, 努力して成功する人, どれも等しく運である.
運は努力を否定せず, 內包する.

全部 運だからなにも意味がないと人類が思ふと停滯するので, 人類の向上のために努力と言ふ虛構を用意するのだらう.
だがそれは決して他者を攻撃するためにあるのでなく, 怠惰な為政者を免責するためにあるのでもない.`