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2023-193 性的嗜好

過去

回顧から始める.
およそ10歳の我は祖父母の家の本棚に有る «家庭の醫學» とか何とか言ふ本を何氣無く讀み始める.
本なら何でも讀みたいのである.
插畫の有る頁を中心にぱらぱらと進むと, 性器の欄に目が止まる.
既に男性器には強い興味が有った.
そこに ‹男性は射精をする› ‹人は性器を觸り快感を得る行爲をすることが有り, これを自慰と言ふ› と言ふ樣な記述を認める (記憶は曖昧である).
勿論 小學生がそれに興味を持たぬ筈が無いから實踐すると, 30分ほどで精通を體驗する.
正確にはそれは射精と呼べるほど爽快でも劇的でもなく, 何だか突然じはりと液が出て來て, 得たばかりの知識からそれが精液だと分かると言ふだけの物だ.
それが社會通念上 隱すべきものとされて居る事は本を讀まずとも分かる (社會通念を相對化するには幼過ぎた).
それから射精は週に1度程度の頻度から殆ど單調増加で漸近しつつ現在に至る.

かくて性欲を知ったわけであるが, その時にはもう男體に欲情する人間であり, 同級の男子に觸りたい衝動が強かった.
ああ, 背の低い同級生のすべすべの腹よ!
圖書室に良く通ふ兒童だった我はそこに有った性教育の本のやけにかわいい男子の插畫を自淫の共としたし, «火の鳥» のクチイヌの朝立ちで勃起したし, «ダレン·シャン» のダレン·シャンとエブラ·フォンが抱き合ふ想像をした.
插入は未だ知らざった.

小學校高學年とも成ると教室には戀愛の話題が增える.
男子は好む女子を1人 ‹決めなければならなか› った.
我は親の計算機で gay porn を檢索する方法を知って居たが gay が何かは知らざった.
親が好む女子を聞いて來るから, 考へ拔いた末に休み時間に最もよく話す女子を傳へた.
實は: 我は23歳の正月に親に同性愛者たるを打ち明けるのだが, そこで親が言ふには親は履歴から我に同性愛の傾向が有ることを知り異性愛に誘導して居たらしい.
23歳の自分はそれを笑って流したが, あとから考ふと許し難い行爲である.
が, 怒っても今更である (我は無知を許す).

我個人の經驗から見れば, 媒體の影響で同性愛者に成ると言ふ論は莫迦らしい.
誰も男に欲情する方法を我に教へざった.
我はそれを一人でに學んだ.
世界は我に異性愛を常識として刷り込み, 我自身ですら女子を好む努力を (無自覺に) したが, 無意味だった.
世界全體が共謀した異性愛化の企みが失敗するなら, どうして同性愛にそれが能ふ?

‹性的嗜好は自分の意思で變へられないから差別してはならない› は欺瞞である.
差別は無條件に惡い.
職業は自由に選擇し得るから職業差別はして良いのか? 無論 違ふ.
性的嗜好を自由に選ぶ人間が居て良い.
人間の可能性は何にも開かるべきだ.
だが我に限って言へば, 生まれてからづっと變へられそうにない.

その後は性的嗜好について重大な事象は無いからざっくりと書く.
中學校では隱さざったし, 朝讀書でBL小説を讀んだり友人の はらからにBL漫畫を借りたりした.
高校では隱した.
知り合ひが少なく成り粗暴な人間も多かったので ‹弱み› を見せぬ樣にした.
大學でも隱したが後悔してゐる.
もっと友人の人間性を信賴すべきだったし, 性生活を樂しむべきだった.
我が今の強さと正しさを手に入れたのは大學を離れてからのことだ.
年上の男と仲良くなり童貞を捧げ初戀し狂氣し失戀するのも大學生の頃だが, あまり思ひ出したくない.

現在

現在の己れに立ち返り, 嗜好にもっと寄って觀察してみる.

一口に言ふなら我は男性愛者である.
男體 特に男根に強く欲情する.
しかし より詳しく述べることも可能だ.

我が性行爲を共にしたいと感ずるのは, 實在の人間なら或る程度の信賴を形成した會話の通ずる友人のみだ.
勿論いざ ことに及べば他人であっても樂しむとは思ふが, 自らその狀況を作出する動機が無い.
例へば公衆浴場に多少好みの男體が有ったとしても他人である限り性交したいと感じない.
勃起せむと頑張って實驗したことが有るが無理だった.
一目惚れなど遠い概念だ.

畫面越しの性的映像には昂奮するが, 演者の顏が映ると使ふのは難しく成る.
皆 dullahan なら良いのに.

小兒性愛者でないかも確認した.
方法は簡單で, 街を歩けば男兒は珍しくないのでぢっと見つめて頭の中で欲情するかを試すのである.
しかし性欲は表れず, 我には それが つまらない.
我は いづれの性愛に對する差別にも反對するが, 安全圏から言って居るだけに思へるから (勿論 當事者のみが正しいわけではない).

虛構の繪を含めると選擇肢が擴がる.
繪なら女體にも欲情し得るのだ, 但し胸と體毛の無い幼い女體に限る.
繪の中の虛構の人物が性交する時, 我は挿入し挿入されて居る二重存在である.

x性愛者だからと言ってx性の全員に欲情するわけではない.
好みは有る.
しかし我が女體に欲情しないことと長髮の男體に欲情しないことはどう異なるのか.
誰かが我に ‹欲情し得るに女體にいづれ出會ふかもしれない› などと言へばそれは挑撥であるが, ‹欲情し得る長髮の男性にいづれ出會ふかもしれない› は雜談である.
それは本質なのか經驗則なのか?
回答を持ち合はせない.

人はx性愛者を名乘るとき, 勝手なxの定義を採用して非典型的なxを除外する.
或る時 我は己れが他者の性別を氣にして欲情するかを決めて居るわけではないと氣附いた.
正確に述べれば我は

  • ‹髮が短く, 乳房が無く, 體がごつごつした (實在または非實在の) 人, または
  • 髮が短い非實在幼女と自己の同一視›
-性愛者なのだ (これでも未だ完全ではない).
しかしそれは日常で使用するには餘りに煩瑣だ.
そんなことを説明する間に性行爲の相手を1人 逃すだらう.
ただ我は日常の合理と性急さに流さる度に, 我が取り溢した非實在の幼女と無自覺に排除した實在の男性の存在を思ふ.

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